昭和47年2月4日 朝の御理解

御神訓一 人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人。



 教えを頂けば頂くほど、ここのところを良く分かって行くわけであります。けれども、何と言うても、やはり一番大事なのはわが身である。わが身よりも人の方が大事という事はない。一番大事なのはわが身である。けれども、やはり人もまた大事である。そこんところの思いは、だんだん強うなって来る。それが私は神心は強うなって来るという事だと思う。ね。

 だんだん信心を手厚うさせて頂いておりますと、これは、んー人の身だけの事ではありません。ね。それは、言うなら猫でも同じ、植物でも同じ。ね。そういう例えば心が使えれるようになる。けれども、その為にはやはり、私自身、わが身自身がおかげを受けなければならない、助からねばならない。よく聞く事ですけれども、まず私が助からなければ、まず私がおかげを頂かなければ人は助けられん。人に、まあお話をする事も出けん。自分が先ずおかげを頂かなければ。というように言う人もあるけれど、まあそういう言い方も、またあんまりな事であってですね。

 なら本当に助かるっちゅうのが、どこまでが助かるなのか。まあ、(たけたけしそう?)に銘々の助かり。わが身、わが身大事と、を思わん者はありません。そのわが身を、上におかげを受けて。そして、そのおかげを受けた程度で、やはり人もまた大事であるという事。ところが、段々その、自分の身がおかげを頂いて参りますと、人の事なんか一つも大事に思わないような人がある。それはもちろん、これは信心でないからでありますけれども。

 私今日、御神前で頂いた事は、もう寒いから沢山の着物を、着膨れするほど着とる、まん丸に(   )着てる。ね、あんまり着膨れしとるもんで、着とるもんだから、自分で自由に、自分自身が自由さえ効かんでおるというような状態のところを御心眼に頂いた。ね、言うならおかげを頂きすぎて、かえって自分自身が身動きが出来んようになってしまっておる。そういう助かり方では、自分すらも助かっていないし、人を助ける。人が、人の身が大事という事が分かっても大事にする事すら出けません。

 それと、この、あの、御神訓のここんところを頂きました。また、それに関連、今日頂くところに関連しておるのでしょうか。今朝方のお夢の中にも、何かそんな事を頂いた。何か、私はだいたい、もう本当に全然出ませんですね、皆さんが御承知のように。ところが昨日は、こう散歩に出ておるところ。教会の(  )周囲がこう町になっておって、こう一偏通り周るとまた教会さに帰って来られるというので、言うなら道をこう歩いておるんです。

 そしたらあの、良う今、立ち食いのうどん屋さんが、あっちこっち出けておりますね。あら、ここに久しぶり出てきたら、ここにこういう、うどん屋さんが出けておる。こう、丸い提灯が下がってうどんという訳です。本当、湯気がたってから、いかにも美味しそうにしてある。私がだいたいは麺類が好きですから、お腹も少し空いてるから。(    )うどん一杯頂こうかなあと思うたけど、やれやれ、待て待て。もう一偏通り周りゃあ自分とこのお家に着くのだから、もう家に帰って頂こう、勿体無いから。と言うて、そこを通り過ぎておるところであった。

 そしたら、ちょうど何か、ちょうど(雨降りあげくの?)、夕べは大変雨が降ったという感じなんです。ちょうど電話のボックスの、昔のボックスのような所の中に、十ぐらいな息子の子が学生服をもうびっしょり濡れて、その電話ボックスの中にこうやって、寝てるんです。そして、しくしく泣く声がするから、ちょっとのぞいて見たら、顔は見えませんけれども、もういわゆる、もう凍え死によるような感じなんです。ああ、可哀想に。えー、いわゆる(むなし子?)だろうかと思うてね、私が電話ボックスからそれを、その子供を抱きかかえて教会に帰ったところで目が覚めた。

 帰って、抱いて来ながら、あの早くお湯を沸かさせよう、そして布団を早う敷けと言おうと、色んな事を思いながら、その子供を抱いて来とるところであった。私は目が覚めてから本当に世の中にはね、こういうような人が沢山あるだろうと思うんです。(瀕死のちゅうたい?)。もうそれこそ、夕べの雨でじっくり、もう濡れてしまって、しかもこの寒空に、電話ボックスの中へこうやって、ような所の中へ寝て、身動きも出けんでおるといったような。ね。これは、私が頂いたのは子供ですけども、そういう難儀な状態でおる人が沢山あるだろうと思う。
 ね。あるですよ。ね、お金がないからだけじゃない、お金がありすぎても、そういう人があるですよ。お金が無うてそういう苦しみをしとる人もあります。ね。人間関係でそういう苦しみをしとる人もある。ね、もうこのまま放っときゃ助かりようがないというような人が沢山ある。そういう助かりようのないような人達が沢山あるのですから、私共がやはり力を受けなければならない、おかげを受けなければならない。人もわが身もみな人なのですから。

 ね、と言うて、ならいかに人が大事だからと言うて、自分自身が瀕死の状態であって、人を助ける事は出けませんよね。信心させて頂いて、だんだん神心が強うなる。私はどういう訳、そのうどん屋の前を通ったり、通ってその、そこんところを私がうどんを食べようかなと思うたけど、いやいや、勿体無いないから家帰ってから食べようといったような事が、どうして出て来ただろうかと後から思ってみたんですけどね。これは、例えば、そんなら今私がお金を出してうどん一杯食べるくらいな事なら、は、言うなら訳ない事。誰も咎める者もいない。

 ね、けれども何時も私の心の中には勿体無いという心がいつもある。いかに自分が助かっておっても、どんなに自分が沢山持っておっても、例えば。ね、それを何時もこの勿体無いという心で押さえる。しかも、その勿体無いという心で押さえた、その押さえられたそれを持って、神心となって人を助けて行こうと言う。そういう、本当悲しい事だと自分で思う。ね。だから、そういう例えばですね、もう本当に顕微鏡で見なければ分からないほどしの心にでも、おろそかにしないというのが、信心なのですから。ね、難しいでしょう。

 こんくらいな事を思うた、人間じゃけん当たり前と言うたら、もう信心の進展はありません。ね。そこで、なら私自身がです、例えばね。神を杖につけば楽じゃと、神を杖についておるようにあって、ね、時折、神を外しておる証拠に、寂しかったり、悲しかったりするという事。ね、そこで、そういう時にそういう心を自分の心。いわゆるそういう心を取っちめて。そして、ははあ、こういう、まだ、まだこの人に頼っとる証拠だと。ね。この人を外して、そして神の杖をつかなければならんな、為には、ならどういう信心をさせて頂いたら良いかという風に信心を極めて行く手がかりにする訳ですね。

 ね。例えば鐘の杖をつけば曲がると。もうどんなに、例えばこれは、鐘という事は、こういう鐘という事でしょうけど。まあ、ここはお金という意味で頂くならですね。どんなにお金を沢山持っておるからと言うてです。それが、頼りになる物では決してありません。金は頼りにはならん。ね、なるほど地獄の沙汰も金次第と申しますけれども、最後に、神を杖につけば楽じゃという事にはなりませんもん。どんなに巨万の富を積んだところで。ね。なるほど地獄の沙汰は金次第でしょうけれども、極楽の沙汰だけは金ではどうにでも出けないんだという事。
 心が寂しい、心が悲しい。不安で心配でたまらん。巨万の富を積んだところで、これを、ね、楽になるという事、極楽に行けるという事はです。ね。いわゆる、極楽の沙汰だけは、金ではどうにも出けないという事実に直面するところからです。ね、私は信心、いわゆる神をいよいよ杖につくところの修行をしなけりゃならん。その為に、今私が申しますように、厳密にです、自分の心をいよいよ検討して行かなければなりません。竹や木は折れる。まあ竹のお知らせは、ここでは素直とこう申します。ね。

 素直にて雲の上までも登る道ありと仰るほどしに、素直心という物は、素直心一つで神様にまでなれれるほどしの心なのですけれども。ね、これは信心あっての話なのです。世の中には、非常にやはり素直な人があります、信心がなくても。ね、だから、その人が雲の上まで登れるかというて、そうじゃないのです。信心させて頂いて素直だからこそ、雲の上までも登る道があるのであってです。ね。だから、素直心があるからと言うて、なら人間が楽になるという事はありません。

 素直な人は一つも心配ないかと言うとそうじゃないでしょう。ね、やはり心配もありゃあ、不安もある。結局、神を杖につかなければ本当の楽ではないという事。ね。竹や木は折れる。木は木、ね、木という字を書いてございますけれども、木は心と言うから、心という事にしても良いです。どんなに木刀んごたる心を持っとったっちゃですね。いわゆる、気が強い人です。やっぱ気が強い人がありますよね。ね。

 けれどもです。それとても、いかに気が強いの、気が大きいのと言うてもです。ね。やはり、木や竹は折れることを体験致します。ね。口では例えばです、ね、大きな事を言うておりましても、心はそれとは反対のような場合があるのは、自分の心だけではどうにも出けないという事。どんなに心が強い人でもです。やはり、心。その、自分の心では折れるという事。挫折するという事。私は自身があるという人でもです。必ず自身を喪失する場合に直面するという事。そこで、自分の木でも行かない、自分の素直心だけでもいけない。んなら、金やら物やら沢山あるから良いという事ではないということ。

 結局は神を杖につかなければ楽ではないという事。シナの皇室様の言葉の中に、君子は豹変するという言葉があります。君子。まあ、紳士という意味よりも、もっと、まあ立派な人という意味なんですね、君子。だから、豹変するという事は、あの、獣の豹ですよね。豹変する、一変するという事、変わるという事。ね、だから(しゅくじ?)は豹変すると言うても良い訳ですね。立派な人ほどです、これが本当だと気がついたら、スパーッと切りかえるです。これは、偉い人は偉い人ほどです。

 もう本当に、でない人ほどです、グウタラですね、やはり。そうする事が本当っちゅう事は分かっとるばってん、切り替えきらんです。やはり、偉い人は偉い人ほど、切り替えが鮮やかです。ね。いわゆる、我執が強い、ね。これは確かにそうだと思いますよ。ね、だんだん信心をさせてもろうて、お話を頂いて、体験に基づいて金光様の信心の、いよいよ有り難さが分かって来る。ね。そして、親先生が言われる事を本当に信じれれるようになって来るとですね、もうそこんところを、もう見事に切り替えて行く人があります。

 やっぱ偉いです、その、そういう人達は。ね。紳士は豹変する。私共は結局、紳士を目指さなければいけません。シナの言葉で言うと、君子です。君子豹変する。いわゆる、君子を目指さなければいけません。ね、信心するからには、やはり(しゅくぞう?)を目指さなければならん。そこんところを教祖は、信心は日々の改まりが第一と仰る。もうこれは、もっと素晴らしいことですね。豹変するというよりも、もっと厳密ですよね。日に日にと仰っておるから。それは、どういう事かと言うと、この世に本当な事というのは、実際はないのです。

 ね。ただ、あるならばです。まあ、これを大真理とでも申しましょうか。私共がね、天地金乃神様のおかげを頂かなければ生きて行かれないという事実。これだけは事実です。これだけは、もうこれは、もう動かす事の出けない事実です。今日はこの事が本当な事だ、真理だと思うた。ところが、明くる日は、もう変わって、実を言うたら折らなければ駄目だと。孔子はそういう意味の事を言ったんですよね。日々に頂いておられます訳ですね。信心は日に日に、の改まりが第一だと。

 これは、その信心の、ね。けれども、なら今日言うておる事が嘘だという事じゃない。今日、今思うておる事が嘘という事じゃない。やはり、本当なんだ。けれども、事実は、本当の本当を追求して行くことが、信心だという事なんです。ね。例えて申しますと、子供の時におもちゃなんかは、その子供にとっては大変な大切な物ですよね。私共の若先生な、まあだ中学に行くぐらいまでは、タンスの引出しにいっぱいもう、あの、パッチリ玉とラムネの玉んごたるとば、入れて直して、ちゃあんと直しとった。ね。それは、もう本当に彼にとっては大事な物だった訳ですよ。ね。

 今頃はそげな物じゃないでしょうけれどね。今頃、例えばそういう物も大事だと言い、それは段々成長して行くに従って、言うならば、大事な物が、大切な物というものが変わってくる。これは大切な物だと、これは大切な事だというその事がです、だんだん年を取って来るに従って変わって来るです。ね。例えば、なら皆さんの場合なんか、お金なんかはもうとにかく、もうそれこそ、場合によっちゃ命よりも大事と言うて、金のために命を落とす人すらありますよね。

 けれども、心がだんだん成長して参りますとですね。私もそこをスッキリとしとるという訳じゃないですけれども、まあ誰よりも私はスッキリしとると思う事は、金は決して大切なモンじゃないと思うとります。そんなに大切なモンじゃないという事。金よりも、もっと、もっと大切な物がある事実をです、日々体験して行きよります。ね。けれども、この辺で行き詰まってしまうとですたいね、もうそれこそ、金の亡者という訳です。

 ね、金の亡霊です。本当(   )じゃない事を考えとるから、もうこれは亡霊です、金の亡者です。ね。だから、金でいよいよ苦労致します。ね。それよりも、もっと、もっと、ね、それは必要なモノではあります。ね。けれども、もっと、もっと大切なモノがあるという事。ね。信心というのは、そういう例えば、ね、いよいよ大切な物を大切な物と分かって行く。しかもです、なら昨日と今日を厳密に言うと、もう違わなければならない。

 お話を頂かせてもろうて、はあそうだと分からせて頂いたらです。もうそこのところは一偏にスパーッと切り替えが出けて行く人があります、思い方が。それは、貴方が君子だからです、そういう思い方の出来る人は。まあ、たとえて例を言うとですね。この頃から日田の綾部さんが断食修行をなさっておられました。まあ親戚、隣近所、まあお付き合いの方達が心配されましてね。まあ、色々、もうそげな事はいっちょ止めなさいと言うて、言うて下さったけれども、まあ貫かせて頂くと言うて、もうお茶も水も頂かずに、しかも神様からお許しを頂くまでというような勢いを持って取り組まれた。そして、常日頃頂いておられる御教えがいよいよ、本当に玩味されて来た、味われて来た。

 聞いて分かっておったようだけれども、本当に修行に取り組んでみて、初めて分からせて頂いた事。もう、五日か六日目ぐらいだったでしょうかね。娘さんが、泣いてからお願いに見えました。お母さんがモノが言えんようになりましたと言うた。やっぱ、そのいう断食なんか、その体にそういう風に変わって、変わった事が起こって来た訳ですよね。しかも年末の酒屋さんですから、大変な忙しいのに、指図する事も出けん、番頭さん達に。モノが出らん。娘さんが、本当に泣いてお届けをするほどしに心配された事と思うんです。それでもやはり、断食を止められなかった。ね。

 そして、あの酒屋さんの年末の忙しい、年末年始の忙しい酒屋さんの一番取り上げ時というような時にです。言うならば、モノが言えませんから、ね、例えば、ああしなさい、こうしなさいの指図もしなかったけれどもです、ちゃあんと出けておったという事です。ね。そん時に日頃頂いておる御教えというモノがです。ね、あの治めると。三ずいへんに無口という御理解を頂いて、ね。いわゆる、無口で治めるという事。ね、言いたい事はいっぱい、けれども金光様、金光様での自分の心の中に金光様を念じて、言わんで治めて行けれるほどしのおかげが受けられた、そのおかげが一番最高だと。

 言うた、言うて分からせたのじゃなくてです、祈って分からせる。無口で分からせる、黙って分からせると言うのである。ね。そこで、初めて分からせて頂いた事は、なるほど親先生が仰っておられる、無口で治めるという事が一番素晴らしい事だ。これは私が例えばいなくてもです、指図する者がいなくても、いよいよの時には出けるんだという確信が出けたと、断食が終わった後に、また物が言えれるようになられてから、そういうお届けをなさっておられますね。ね。

 ですから、本当に、もうそれは利口に言うたり、怒ったり、宥めたりすかしたりして、人を使おうといったような事で、例えば使う使用人ひとり使うでもです。ね。黙って使う、祈って使うというほどし素晴らしい事はないんだとです、分かられて、これが例えば現在、まあ切り替えられてそういう修行に、言うならば取り組んでおられる訳ですけれどもです。もし、それが本当に出けるという事は、これは私は、綾部さんが偉いからだと思うですよね。

 ね、だから、それはまだ完璧という訳であるはずはありませんよ、人間ですから。けれども、それが本当に分かったんです。本当なことが本当として分かった。2~3日、昨日一昨日でしたかね、観念のお供えという事。ね、そういう観念がです、例えばスッキリと例えばお供えが出けた時に、天地が自由になるほどしのおかげが頂かれるという御理解でしたですね。ね。だから、ならその事だってです。これを厳密に申しますとです、私が今日みなさんにも聞いて頂いたようにです。ね、私はアンタだんに頼っとらんよと。

 総代幹部の方達でも言うておるけれども、厳密に言うたら頼っとる証拠に、来とらんと寂しか。っはっはっは。頼っとる証拠だと、自分が悲しくなるぐらいにそれを思う。それで、そこんところをです。ね、悲しい思いをせんで済むような私にならせて。なら、これは綾部さんの事、場合でも同じ事。もう物が言えるようになったばってん、絶対言いよらんちゅう事絶対ない。えーい言いよんなさるに違いはない。

 けれどもです、根本的なところが分かったんです、本当なところが。だから、それに段々、一歩一歩近づいて行くという事なんです。そういう切り替えがです、ね、例えば、これは君子豹変するであります。それがスキッと出けた時に、貴方は君子だという事が言える訳です。ね。だから、そういう例えば難しいことに取り組ませて頂くのでございますから、決して信心は見やすいものではないという事。けれども、その時に至った時にです、初めて神を杖についた事になる訳です。神を杖につけば楽じゃと。ね。

 まあだ金を杖についとる、木や竹をついとる。そして、それは曲がる事が分かっておるけれども、木や竹は折れる事が分かっておるけれども、ね、やはりついておる自分というものを厳密に検討させて頂いて。ね、木や竹を外し、ね。金を杖につく事を外させて頂いて、神様一心にすがれれる、神様を、神を杖につけば楽じゃというところまでです、信心を高めて。これはもう、限りがない事です、厳密に申しますと。ね。そういう意味で私の場合は、楽なという心の状態が、誰よりも強い訳でしょ。どういう心配、どういう難儀とほとんどの方が心配しとるような場合でも、私の心は楽なんです。

 ね、ですから、それだけ神を私は杖についておるのですけれども。ね、まだまだ、厳密に言うとです。ね。豹変するほどしに、な変わり方をしてないという事。ね。いよいよ、いわゆる信心でいうところの君子を目指さなければならないと思うのです。本当にね、えらい人ほど、もうそれこそ、(おうたこんでも?)教えられると、教えられたらもう、それこそスパーッと改めて行くです。それは、その人がえらいからです。ね。例えば身分の下の人にでもです。自分が悪いと思うたら、すぐお詫びの出来れる人です。それは偉いとです。ね。

 教祖が仰る、信心は日々の改まりが第一。ね、君子は豹変する。本気でいよいよ、ね、本当でない物をです、私共が本当と思いこんでおるような思いをね、変えて行く為に、いよいよ改まって行かなければ、なるほどそうだと、ね。例えば、ね、なるほど言わんで済むのではない。言わんで治めるという事がどのように素晴らしい事かと、まあ、日々綾部さんが体験して行かれておられるであろうようにです。ね。ね、それを体験していく事が信心。大変な難しいこと。けれども、難しいけれども、難しいほど楽しいであり、有り難いのであり。

 そして、いよいよ神を杖につかせて頂いておる自分がです。ね、感じられる事はです、はあ本当にこう、昔ならここに一口言わにゃおられじゃったばってん、言わんで済むという事は、どうしてこんなに楽な事じゃろうかと、もう神を杖についとるから、楽なおかげが頂けておる訳なんです。ね。私共が、ね、本当に大切な物でもない物を大切に思うて。ね、おる愛だは、本当の次の大切な物に触れる事が出けません。信心とは、ね、より大切な物、より本当な物を日々頂いて行くという事。

 それには、日々の改まりがなからなければ、それを自分の物にして行く事は出けません。ね、お金ならお金が、ね。そんなに大切な、いやお金よりもっと、もっと大切な物があるとスッキリ分かった時に、お金に不自由するような事は、もう絶対にないでしょう。また、お金で心配する事は尚更、サラサラ無くなってくるです。ね。信心とは、本当から本当を、だから追求して行く事なの。それには、やはり豹変という言葉を使ってあるほどしにです。豹変して行く、一変していく。人間が変わって行く。そういうおかげを頂かなければ、いつまで立っても神を杖につけば楽じゃと仰る、楽なおかげになって行かんと思うですね、どうぞ。


                   末永信太郎 ( 7月11日 )